園長コラム

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《子どもに与えることができるもの》

子どもたちに何を与えることが本当にふさわしく、また必要なのか、私たちはいつも迷います。

人と比べたり、ダイレクト・メールや教材勧誘の電話などがたびたび来る中で、何かをしてやらなければと責められるような気持ちになるのです。
「今これをやっておけば必ず役立ちます」式の早期教育や知識習得教材のコマーシャル、多くの知的学習や習い事のたぐいを教育内容としている幼児施設が、親たちの不安と満足感を刺激しています。
少しでも早いほうがいい、いろんなことをしておいた方がいい、知らないより知っていた方がいいのでは…。そんな思いになります。

その多くは、「これを食べれば健康になる」といった実証性の薄い情報と、同類のものでしかありません。
いくら子どもを取り巻く社会や生活形態が変化しても、一人の人間が成長していくステップや、子ども時代にしか身につけることができないものは変わりません。
短縮したり飛び越えたり、すぐに役立たないからといって省略したり、あるいは後で補充したりすることはできないのです。
おさなごがそれぞれの成長の階段を上っていくためには、新しく体験する身近な命や自然、子ども同士、人と人とが時間をかけてしっかり関わり合うことが必要です。
そのような体験をとおして、様々な人間的感情や心の豊かさが育まれていくのです。
初めてのものに出会って、驚いたり不思議に思ったりする気持ちが、やがて自立し自分の生き方を選び取っていく時の力になるのです。

わたしが大切にしている言葉の一つを紹介します。レイチェル・カールソン(人間による環境破壊を告発し自然保護を訴えた『沈黙の春』等で著名な米国の海洋生物学者)が残した『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳/新潮社)という本の一文です。
趣旨をくみ取っていただくために、少し長いのですが引用します。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。
残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。…(中略)

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

妖精の力にたよらないで、生まれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮にたもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります。

わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。

子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。
幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。

美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。

そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。
もし、あなた自身は自然への知識をほんのすこししかもっていないと感じていたとしても、親として、たくさんのことを子どもにしてやることができます。

彼女が語りかけていることは、自然の事物だけでなく、広く人間としての感性全体を育むことについてです。そのためには、シンプルでゆったりした時間と空間、そしていっしょに生きていく仲間が必要です。
幼稚園はそんな場所でありたいと思います。

もし人生のゴールが10歳でそれが全てを左右するのでしたら、あるいは他人の計るものさしで自分の人生の価値が決められるのでしたら、一刻も急ぐ必要があるでしょう。
でも、その子に神さまが与えた種子(それは親さえも中身を開けてのぞいて見ることはできません)が、やがて育ち実を結ぶまで待つことができるなら、今すべきことはそう多くはありません。
昨今、子どもや親子、家族に関する陰惨な事件が後を絶たず、他者への思いやりを欠いた現実を目の当たりにします。
子どもたちの事件は、私たちの社会の状況を映し出していると思われます。満たされた子ども時代を送り、自分は愛されているという経験の薄い子どもたちが増えているようです。
ゆったりと時をかけて互いが認め合い、つながり合って生きる経験が失われていることが、大きな要因のような気がします。

あやめ幼稚園での体験は、すぐに成果が出たり結果がわかったりしないのだろうと思います。子どもたちの将来に、本当の意味で役立つ生きていく力が養われていることを、わたしは信じています。

終わりに、カールソンの感性と響き合う、金子みすゞの童謡を二編。

「星とたんぽぽ」
青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
「不思議」
わたしは不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、 銀にひかっていることが。
わたしは不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、蚕が白くなることが。
わたしは不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、ひとりでぱらりと開くのが。
わたしは不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、あたりまえだ、ということが。